翻訳できない言葉をどう扱う?翻訳の面白さと難しさ
カバナ アンドリュー
日本語翻訳:桑原 謙
翻訳とは
皆さんは完璧に翻訳できない単語があるのをご存知ですか?翻訳は理論上、ある言葉を別言語で同じ意味の言葉に置き換えるという、単純な作業のはずです。この記事の見出しを見て、「翻訳できない単語なんてない!」と思う方もいるかもしれませんが、現実はもっと複雑です。翻訳できない単語があるのではなく、その単語が含まれる文章を見ただけでは意味が伝わらない場合があるのです。
一見すると、何かを別言語へ翻訳できないという主張はおかしく思えますよね。結局のところ、どんな事柄も多少の説明を加えれば意味は伝わります。しかし、翻訳とは必ずしも逐語訳のことを指すとは限りません。文章の意図を効率よく、わかりやすいように伝えることが翻訳なのです。例えば、日本語は少ない文字数で多くの情報を伝えられるため、英語に翻訳しようとすると長文になりがちです。長文は契約書や論文などでは問題ないでしょうが、これがもし4コマ漫画となると大変なことになってしまいます。
身近な例:「〜さん」や「〜ちゃん」
日本語の敬称を例に取ってみましょう。「〜さん」、「〜様」、「〜ちゃん」などの敬称は、短いながら相手との複雑な関係性を示す重要な役割を持っています。「〜さん」はおおよそ英語の”Mr.”や”Ms.”と同じ意味を持っていますが、日本語で日常的に使われている「〜さま」の意味を網羅することは不可能です。このような日本語では2〜3文字程度で構成されている敬称を翻訳しようとすると、キャラクター間の関係性を説明するぎこちないフレーズになってしまいます。文字通り「翻訳できない」わけではないですが、結果として不自然な翻訳になってしまうのです。
これを踏まえた上で、新たな疑問が浮かび上がってきます:果たしてこれらの単語を翻訳する必要はあるのでしょうか?特定の日本語を翻訳せずに、そのまま用いることを望む読者やプレイヤーも増えてきています。彼らにとっては、これらを無理やり訳すことで物語などに存在する日本文化や「日本らしさ」がなくなってしまうのです。結局のところ、その読者やプレイヤーが主に日本のコンテンツに触れているのなら、翻訳は可能な限り原作に忠実であるべきではないのでしょうか?
一方で知らない単語ばかりだと、日本文化に詳しくない英語圏の読者やプレイヤーが親しみを持ちにくくなってしまうことから、極力英語訳を採用すべきだと論じる翻訳者も中にはいるかもしれません。しかしアニメや漫画、ポップ文化などの世界的な人気を介して、欧米圏では今までで一番、日本文化に詳しい時代が到来しています。このことから私は、すべてを英語で説明しなければならないという2000年代の風潮は古く感じます。多少知らない単語が含まれていても、文化的違いを楽しむことができると読者やプレイヤーを信頼してもいいのではないでしょうか?
文化を越えて
ここまで一つの単語の翻訳について着目してきましたが、翻訳の過程で、単語を超えた人々の行動を説明する際にも困難に突き当たる場合があります。例として、欧米圏では日本の「告白」は存在しません。自分の気持ちを相手に伝えるという意味ではよくあることですが、欧米の人々にとっては交際するための告白が儀式的に見え、時にはお見合いのような時代にそぐわない風習として捉えられてしまうことがあります。
皆さんがタイミングを見計らい、ドキドキしながら告白をすることがあるように、日本での告白文化は交際の前に二人が互いの好意を確認し合う日常的な行いです。一方で交際すること自体がよりカジュアルな欧米では、その意思確認でさえ不思議に思えてしまうのです。
それでは翻訳者はどのようにこの差を扱えばいいのでしょうか?より親しみを持ちやすいように追加で説明を加えてもいいですが、翻訳者が説明を加えることで読者やプレイヤーの没入感や感動を阻害してしまうかもしれません。現代の読者やプレイヤーは理解せずとも文化的な違いを察知する能力を備えていることが多いです。説明を加えずに、「これは日本ならではのことなんだな」と読者やプレイヤーの一人ひとりに解釈を委ねてもいいのではないでしょうか?

日本らしさとは
とはいえ、「日本らしさ」を残すべきかどうかは作品の設定に大きく左右されます。例えば埼玉の高校を舞台にした物語は、必然的に「日本らしさ」が残るでしょう。しかし、日本で製作されたヨーロッパ調のファンタジー作品だったらどうでしょうか?このような作品ではよく王様を「〜様」と呼ぶように、我々は自然に敬称を使いますが、この敬称を訳そうとすると不必要な「日本らしさ」を加えてしまう可能性があります。
日本のクリエイターも、あらゆるクリエイターと同様に自分の知識の範囲内でしか物語を書くことができません。自分の文化的背景が作品に与える影響や、それが世界にどう受け取られるかについて常に自覚できるとは限らず、そもそも関心があるかどうかも定かではありません。ここで重要な疑問が生じます:日本を舞台としない物語で「日本らしさ」を保つ必要はあるのでしょうか?「日本らしさ」をあえて残すことで「メイドイン・ジャパン」として品質を保証したり、クリエイターが意図せずとも日本の文化的アイデンティティを示したりすることができるかもしれません。この「日本らしさ」を残す決断はすべての作品を通して画一的に決めるのではなく、作品の設定、気風やクリエイターのビジョンを加味して作品ごとに決めるべきです。
文化と翻訳のバランス
先ほどの問題に加え、日本ならではの言葉や概念を複雑化してしまうという課題も存在します。「仲間」を“friend”と訳してしまうと本来のニュアンスが抜けてしまう可能性がありますが、”comrade”や”ally”などと訳せば十分に伝わる場合がほとんどです。このように一つ一つの日本語を、あたかも神聖な翻訳不可能である言葉のように扱う必要はありません。日本の文化を保ちつつ、海外の方にもわかりやすいよう、双方のバランスを保つのが翻訳なのです。
おわりに
世に言う「いい翻訳」は、原文と読者やプレイヤーが持ち合わせいる理解とのバランスがとれています。両者の文化的違いを恐れず、かつ適切な補足を加えているのです。この絶妙なバランスが取れていると、読者やプレイヤーが自発的に作品と触れ合う機会が生まれます。
最後になりますが、翻訳とは単に言葉を訳すだけではありません。文脈や背景、文化や読者・プレイヤーに対する理解が必要不可欠です。翻訳が難しい日本語の表現や概念などは、かえって文化同士を繋ぐ架け橋となり、我々の教養を深める機会となります。「翻訳不可能」を解決すべき問題と捉えるのではなく、新たな文化を学ぶチャンスと捉えるべきです。結局のところ、翻訳の魅力は、やはりここにあるのではないでしょうか?

About the Author
Andy K.
ローカライゼーション・プロデューサー(日→英)

